コラム 第2回(2008.09.21)
翻訳コーディネーションという仕事
一般に、日本人は翻訳の品質に対してウルサイといわれている。事実、非常にうるさく、たいていの人が一家言をもっている。明治以後、欧米の文物を翻訳・摸倣することで学問や文化を発展させてきた歴史がその背景にあるのだろう。EU 加盟国のあいだで翻訳された文書(たとえばドイツ語やスペイン語から英語への翻訳)をときどき読む機会があるが、われわれ日本人の感覚でいえばかなり大雑把と思えるものも少なくない。日本でならとうてい許してもらえないレベルのものをみかけることもある。
日本においては、翻訳に関するクレームは納品物に対する修正の要求というより、翻訳者や翻訳会社の能力に対する疑い(もしくは否定)の表明であることが多い。「内容がわかっていない」「文章がヘタ」、あるいは「頭が悪い」という評価であり、「もうオタクには頼まない」ということになる。だから、翻訳の現場に身を置く者の側からすれば、品質にクレームをつけられるほど切実な問題はない。おまんまの食い上げに直結する上に、精神的なダメージも大きい。しかも、肝心の品質に関する基準が明確ではないため、始末に困る場合も多い。
翻訳会社側にもむろん言い分があるが、いずれにせよしょっちゅう品質にクレームがついているようでは先行きがおぼつかない。プロの翻訳会社として継続的に仕事を得ていくためには、質の高い翻訳を、できるだけ短い納期で、安定的に供給することが絶対に必要である。そのために、翻訳コーディネーターと呼ばれる人間(私もその一人だが)は日々苦心しているのである。
さて、先述したように翻訳に関してかなりおおらかな判断基準を持っているようにみえるEU でも、翻訳会社(translation service provider)の品質管理に関する要件が公式文書としてまとめられている。いま筆者の手許にあるのはprEN15038:2006(E) というものだが、ここには翻訳会社が第三者に翻訳業務の全部または一部を遂行させる場合に満たすべき要件として、いくつかの事項があげられている。
まず、人的資源の維持管理。これは翻訳者やチェッカーの選定・採用や、彼らの専門的な能力の維持・向上に関するものである。どのような方法や基準で翻訳者やチェッカーを採用しているのか、また、彼らの専門知識や能力の維持、レベルアップのためにどのようなことをおこなっているかということである。
次に、技術的資源の維持管理。こちらはおもにハード面に関するもので、翻訳業務の適正な遂行に必要な、データ等の安全確実な取扱(蓄積・取り出し・保管・処分など)や、翻訳者・クライアントとのコミュニケーションに必要な設備・装置・ソフトウェア等の維持・管理などだ。また翻訳に必要な情報源・媒体へのアクセスの確保などもここに含まれる。
次は品質管理のシステムである。こちらは翻訳者から納品された成果物の品質をモニタリングするプロセスや、クライアントへの納品後の修正のプロセス、あるいはクライアントから受領した情報・資料の取扱方法などが対象となっている。これに加えて「プロジェクト・マネジメント」の要件がある。各翻訳プロジェクトはプロジェクトマネジャーによって管理監督されなければならず、プロジェクトマネジャーは、翻訳業務が所定の手順と、クライアント殿間で定められた手順・取り決め等に従って行われているかどうかに責任を負わなければならない、というものだ。
整理してみると、プロジェクトマネジャー(これは翻訳コーディネーターとほぼ同義と考えてよい)の役割は、顧客から委託を受けた翻訳業務に関し、与えられた条件(品質、時間、コスト等)のもとで、顧客の満足度をもっとも高める成果物を生むための工程を設計し、ヒト(翻訳者)、モノ(辞書、支援ツール、通信環境等)、カネなどの資源を適切に組織・配分し、これに基づいて進められる実際の作業工程を管理・監督すること、ということになるだろうか。
では実際に翻訳会社はどのような形で翻訳というプロジェクトを管理しているのだろうか。ここで、顧客から業務の委託を受け、最終的に翻訳成果物を納品するまでの一般な工程ないし業務プロセスを示しておこう。翻訳会社によって、また文書の内容・納期その他の条件によって、工程が複雑になったり簡略化されたりなど多少の違いはむろんあるだろうが、通常はほぼこのような手順でおこなわれていると考えてよいだろう。翻訳という製品を生み出すためのプロジェクト・マネジメントは、この工程全体の設計と管理・改善ということになる。
以下、この図に従って、翻訳ができあがるまでの工程とその管理方法について記述することにしよう。
最初に、原文の分析とクライアントの要件確認を行う。原文の分析とは、文種と分量の確認、文書内容のおおおその把握、参考資料や参照用データの有無の確認などをおこなうことである。ここでいう参照用データとは、これから翻訳する文書と類似する過去の翻訳例のことで、翻訳データベース、翻訳メモリとして蓄積されたものから適宜抽出する。いわばお手本だが、翻訳期間の短縮や品質の安定化の上で重要な役割を果たすので重要である。たとえば契約書の翻訳の場合、いつでも登場してくるレギュラーメンバーのような条文(ボイラープレートと呼ばれることは周知の通り)があるので、お手本もしくは雛形があるのは極めて有効である。もっとも、最近では個々の翻訳者が自分なりの翻訳データベースを持っていることも多い。
これとほぼ並行して、クライアントの要望事項、特に納期、用途、支給データ(指定訳語集・参考資料等)の有無などを確認し、かつ予算(当該翻訳業務に使える費用総額)の範囲内で、可能な工程設計(人員の配置、作業フローの決定)をおこなう。納期によって最低限必要な翻訳者の人数はおのずと決まってくるし、どこまでのチェックをおこなうか(もしくはおこなえるか)によってチェッカーの人数にもおのずと制限が生じる。また秘密保持の観点から、内部処理の度合いを高めたりするなどの配慮が必要になることもある。なお、チェックにはいくつかの種類または水準があり、誤字脱字や数字の入力ミスのチェック、誤訳や訳抜けのチェック、さらには専門用語等のチェックなど、プロジェクトの内容・要求水準に応じていろいろな設計が考えられる。成果物の品質を高めるにはチェックを多層的、複合的にしたほうがよいとはいえるが、納期や予算の制約上無理ということもしばしばある(というよりそのほうが多いかもしれない)。また、一般にチェックの工程を増やしすぎると費用対効果が著しく低下するという問題もある。
さて、ここまでが決まればあとは人選である。誰しも得意・不得意があり、得手・不得手がある。また一口に契約書が得意といっても、売買契約は問題ないが、信託契約となると難しいといったこともある。翻訳者のデータベースに自己申告の情報が含まれている場合には自己認識と客観評価のずれにも注意しなければならない。そうしたことを考慮しながら人選することはもちろんだが、翻訳者の仕事の混み具合(もしくは重なり具合。職業である以上、複数の翻訳を並行しておこなっている翻訳者も少なくないが、あまりの過密スケジュールは翻訳の質を低下させる場合が多い)、訳文の個性(複数翻訳者によるプロジェクトの場合、癖のある訳文が入っていると最終的な修正に時間がかかるので、あまり個性の強い翻訳者は避ける必要がある)などもチェックポイントになる。
翻訳者に関するさまざまな評価データを記録・蓄積している翻訳会社は少なくないだろうが、文字や記号だけでは表現しにくい微妙な属性も多く、このあたりの情報の総合的な取捨選択とそれに基づく人選は翻訳コーディネーターの力量によって左右されやすい。同じ翻訳会社に発注した場合でも品質にばらつきがあるのは、担当した翻訳者の能力による場合も多いが、コーディネーターの質によっても最終的な翻訳の質が大きく左右されるので注意を要する。
なお、工程図の中に「スタイルガイド」というものがあるが、これは(大雑把にいえば)表記や入力に関する約束事をまとめたものである。「及び」「又は」のように漢字を使うか、「および」「または」とするか、あるいは「$3,000,000」か「300万ドル」か、はたまた「3 百万ドル」かといった文字遣いの取り決めや、字下げやインデントのミリ数などレイアウトに関するものも含まれる。つまらないことのようにも思えるが、複数の翻訳者でおこなうプロジェクトの場合にはこれらのことを取り決めておく必要がある。筆者も新米コーディネーターのころには、その辺りの取り決めなしに複数人に翻訳を依頼し、あとで表記の統一にたいへんな時間をかける羽目に陥ったことがある。
それはさておき、さまざまなことを事細かに取り決めれば「スタイルガイド」は相当な分量になるわけだが、あまり大部に過ぎ、検索・参照に時間がかかりすぎるようになると肝心の翻訳の作業効率や品質に悪影響を及ぼす。本末転倒にならぬよう、ほどほどの範囲までにまとめたものが望ましいように思う。
また、翻訳を開始するには文章を「である」調にするか「ですます」調にするかくらいは最低限きめておかなければいけないが、複数人で翻訳をする場合にはもう少し具体的に文章のタッチを理解してもらうために「文体見本」をつける場合もあり、それなりの効果は期待できる。 さて、ここまでで翻訳を開始するための条件は整ったことになる。コーディネーターにとって、仕事全体のなかでいちばん重要なのはここまでで、あとは翻訳者やチェッカーが決められた路線の上からできるだけそれないように、必要な監視(ことばは悪いが)と助言をおこなえばよい。自分で翻訳するわけではないので、逆にいえばそれしかできないのである。
「翻訳作業」の段階では、個々の翻訳者が作業途中に抱いた疑問や確認事項などをコーディネーター(またはチェッカーなど)に送り、回答や指示を受けるようなプロセスが必要になる。一人の翻訳者による作業であれば電子メールで十分だが、何人もの翻訳者やチェッカーが関与する大プロジェクトともなるときわめて煩雑になる。かつてはメーリングリストが多用されたが、最近は掲示板を使用するほうが一般的である。一人の翻訳者が投じた質問とそれに対するコーディネーターの回答を全員が見られるので、非常に効率がよい。但し、セキュリティには十分な配慮が必要だろう。
「レビュー/チェック」から「訳文修正」までのプロセスは、訳文の品質向上に欠かせないものである。小規模の仕事なら翻訳者(1名)とチェッカー(1名)のあいだを1往復させるだけであり、コーディネーターがチェッカーを兼ねるような簡素な形式をとる場合も多いだろう。規模が大きくなると、訳語や表記の統一のチェックや、文章全体を素読みしての推敲など、負担も大きくなる。この部分もコーディネーターやチェッカーの力量や経験がものをいうところであり、品質に差が生じる原因となる。なお、さきのEU の規格では、チェッカーはreviser とreviewer の2 つにわけられている。もっぱら文章に重点を置いて修正する人と、専門的内容に重点を置いて修正する人ということかと思われる。
さて必要なチェックと修正(レイアウトの修正も含む)が終わったとして、いよいよ顧客への納品である。筆者が現在の会社に勤務し始めたころは紙(手書きやタイプライター)の原稿での納品が普通だったが、最近ではほとんどが電子ファイルをeメールやFTP サーバなどを利用して納品する。この際、紛失その他の事故の際のセキュリティを考えて、パスワード等による文書保護をしておく必要がある。なお、秘密保持という点でいえば、上記の工程全体をカバーする総合的な体制が必要だが、紙幅の関係上ここでは述べない。
クオリティマネジメントの要素としては一般に「品質管理」「品質保証」「品質改善」の3つが挙げられる。たんに1回1回の業務で品質の管理をおこなうだけでなく、最終的な成果物について品質を保証し、そのような品質保証できるようにたえず品質管理プロセスを改善していく努力が不可欠であるということであり、これも翻訳コーディネーターの重要な仕事のひとつである。こうした日々の努力は、相見積もりによる金額比較だけでは判別できない。翻訳会社を選ぶ際には、ぜひこうした点に注意していただきたい。
The LEGAL.COMM誌(バベル・プレス刊)より一部改変して転載
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