プロフィール

コラム 第11回(2009.6.10

 

バベル翻訳学院のころ(2)

 

前回も書いたことだが、私がバベル翻訳学院に配属になったのは入社2ヶ月目の19832月からで、その後19943月までの丸11年間をバベル翻訳学院(途中からバベル翻訳・外語学院に改称)で過ごした。過ごしたというのはヘンな言い方だが、当時は朝から晩まで働いていることが多かったし、78月はサマーセミナーで土日も出ずっぱり、しかも大阪や名古屋、ときには東北への出張もあったから、家で寝ている時間を除けば、毎日のほとんどをバベル翻訳学院で過ごしていたといってよかった。

 

民間企業の運営する学校だから、受講者が来なければ成り立たない(まあ、本来はどんな学校でもそうだとは思うが)。そのため、受講者募集のための営業活動が仕事の半分近くを占める重要なものだった。当時は4月と10月に新学期が始まっていたので、募集期間は13月と89月だった(他にサマーセミナーの募集が67月にある)。この期間中は、授業の合間を縫って学校説明会や公開セミナーを開催し、カリキュラムについて説明したり、模擬授業を体験してもらったりする。もう覚えていないが、学校説明会だけで1年に50回くらいはおこなっていただろうと思う。1回約2時間で、数人から数十人の参加者を相手に熱弁をふるう。もともと人前で話すのは苦手だが、この説明会のおかげでずいぶん話がうまくなったように思う。もっとも今はもとに戻ってしまっているが。

 

公開セミナーは、修了生の翻訳家に1時間ほどお話をしてもらうというタイプのものと、バベルの著名講師にやはり1時間ほど模擬授業をしてもらうというタイプのものがあった。セミナー開始前にまず自分で15分ほど学校の説明をしてからゲストにご登場いただくという形式だったが、入社したての頃はいくら長く話したつもりでも10分ももたず、緊張で汗びっしょりになってゲストのかたに救いを求めるというような状態だった。

 

そのころ、修了生でいつも力を貸してくださったのは片岡しのぶさんと山本やよいさんのお二人だった。どちらも中田耕治先生のクラスの修了生で、当時新進の翻訳家であった。話のスタイルはまったく異なっていたが、参加者を笑わせながら、翻訳の楽しさ、難しさ、そして(ここが重要なところだが)バベルの授業の楽しさや受講するメリットを巧みに話してくださった。私自身も、まだ右も左もわからぬ翻訳の世界について、ずいぶんいろいろなことを教わった。そのころのセミナーの情景は、今でもありありと思い出すことができる。

 

翻訳という職業の人気が高まり、マスコミなどで頻繁に取り上げられるようになる少し前のことだから、公開セミナーといってもまだそれほど人が集まるわけではなかった。20名を超えるのは稀で、普通は多いときで十数名、少なければほんの数名だ。

 

入社2年目のこと。専門課程の講師で、ラリー・ボンドやマイケル・バー・ゾウハーの翻訳で知られた広瀬順弘先生に公開セミナーをお願いしたところ、開始時間になっても一人も参加者が来ないという事件があった。予約申込みは数名あったのだが、天気が悪いせいだろうか・・・。結局、20分ほど待ってみたが来校者はなく、やむなくセミナーは中止とした。「やっぱりもっと有名な人を連れてこないと」と、少しはにかむような笑みを浮かべながら、先生は私を慰めてくださった。忙しいなか、時間をやりくりして来てくださったのだから、無論いい気持ちではなかったろう。だが、そういうときでも他人を気遣ってくださる優しいかただった。私はただひたすらお詫びしていた。

 

シャイで、少しも偉ぶったところのない人柄で、お酒は好きだがすぐに赤くなる、だが赤くなってからが強い、というタイプの人だった。その広瀬先生が亡くなってから2年近くになる。あの事件のときのことを思い出しては、今もお詫びしている。


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