シノプシス

 

1 タイトル

Germany's Last Mission To Japan - The Failed Voyage of U-234

日本を目指したドイツ海軍の最終任務――失敗に終わったU-234の航海

 

2 出版社および発行年度

Naval Institute Press (2000)

 

3 著者について

ジョセフ・マーク・スカリア(Joseph Mark Scalia)

 ルイジアナ生まれ。ルイジアナ工科大学にて歴史学を専攻。1994年よりU-234の伝説に関する研究に着手。1995年に同大学学士課程を修了し、大学院に進学。上記のテーマで論文を執筆し、1997年同大学院修士課程を修了。最近では、1812年の第2次英米戦争における、レーク・ボーン(ルイジアナ州)の戦いをテーマにした論文をJournal of Mississippi History誌に発表。スカリアの祖父は第2次世界大戦中、曹長として米海軍の潜水艦に乗務しており、著者はこの祖父の影響で、海に関心を持つようになった。祖父の思い出話、そして海軍での体験(1989年から1997年まで予備軍の設営部隊運転手として勤務)から、スカリアは海戦における人的要素の重大性を認識するようになり、個々の戦いや艦船だけでなく、その中で繰り広げられる人間ドラマにも検証を加えている。

 以前はメリーランド州のケントアイランドに住み、チェサピーク湾でヨットやカヌーを楽しんでいたが、現在はヴァージニア州在住。リンチバーグの合成樹脂製造会社でプロジェクト・エンジニアとして勤務をするかたわら、作家、講師、ミュージシャン、考古学者としても活躍。休日にはブルーリッジ山脈を散策しながら、次なる活動について思いをめぐらせている。本書は著者初の出版物。

 

4 主要登場人物の紹介

ヨハン・ハインリッヒ・フェラー・・・・・・・・・・U-234の艦長、海軍大尉、

ウルリッヒ・ケスラー・・・・・・・・・・・・・・・空軍大将

エリック・メンゼル・・・・・・・・・・・・・・・・空軍中尉

フリッツ・フォン・サンドラルト・・・・・・・・・・空軍中佐

ゲハルド・ファールク・・・・・・・・・・・・・・・海軍少佐

ハインリッヒ・ヘレンドン・・・・・・・・・・・・・海軍中尉

リヒャルド・ブラ・・・・・・・・・・・・・・・・・海軍少佐

カイ・ニーチュリング・・・・・・・・・・・・・・・海軍法務官

ハインツ・シュリック・・・・・・・・・・・・・・・電子工学博士

アウグスト・ブリンジワルド・・・・・・・・・・・・メッサーシュミット社の技術者

フランツ・ルフ・・・・・・・・・・・・・・・・・・メッサーシュミット社の技術者

庄司元三・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本海軍中佐

友永英夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本海軍中佐

 

5 内容要点

 第2次世界大戦末期、同盟関係にあったドイツと日本は、軍事物資や兵器製造技術を交換し合いながら、難局を乗り切ろうとしていた。そんな中、日本からの要請を受け、ドイツ空・海軍のエキスパートおよび軍用機メーカーの技術者を乗せたUボート「U-234号」がノルウェーのクリスチャンサンを出航していった。その後ドイツが降伏し、大西洋を航行中だったU-234もアメリカ側に降伏する。乗員、便乗者は捕虜となり、U-234の貨物もアメリカ軍の手に渡った。本書では、日本向けの最後のUボートとなったU-234の任務を、様々な公式文書や関係者のインタビューを元に検証し、U-234の歴史的位置付けと、このUボートにまつわる噂の真相を探る。

 

6 目次

前書き

序文

謝辞

著者による注釈

1部:最後の航海の展開

1章 事の起こり:日独協定

2章 最後の潜水艦

3章 降伏にまつわる問題

4章 ポーツマス

第2部:新世界

5章 大将

6章 防空にまつわる問題

7章 デーニツの海軍の任務

8章 科学者たち

9章 メッサーシュミットから来た男たち

結論

補遺

注釈

文献目録

索引

 

7 各章のあらまし

 

前書き(ユーゲン・ロウアー:シュトゥットガルト現代史図書館館長)

 第2次世界大戦末期、日独両軍は連合国側に海上封鎖を敷かれ、物資の輸送を潜水艦に頼らねばならなくなった。しかし、それでもインド洋やペナン沖で両国の潜水艦は次々と沈められていく。そのような状況の中、ドイツのUボート、U-234号が出航し、これがドイツから日本に向かう最後のUボートとなったのである。日独の潜水艦に関する文献は数々あるものの、U-234を単独に扱ったものはこれまでなかった。しかし1980年代になって、U-234がウラニウム235を積んでいたのではないかとの疑惑が生まれると、U-234への関心が高まった。1990年代にはテレビで特集が組まれたこともあったが、その内容は真実を正確に伝えているとは言い難かった。本書の著者スカリアは、英・米・日・独の公文書、U-234の元乗員、便乗者および核開発専門家へのインタビューを通じて得られた情報を丹念に検証し、U-234にまつわる「伝説」の真相を明かにしようとしたのである。

 

序文

 第2次世界大戦末期、ドイツには新兵器の開発能力はあったものの、戦時下の経済状況から、開発は思うように進んでいなかった。同盟国である日本も、連合国との軍事力の差を痛感し、両国は物資・技術・人材の交換をすることで大戦を乗り切ろうとしたいた。一方アメリカは、軍需産業が活気を帯びていたものの、敵国である日独の兵器開発能力を測りかね、長引く大戦にうんざりしていた。1945年、ドイツ降伏の報を聞くと、アメリカは事の他それを喜んだ。そして5月15日、アメリカの駆逐艦「サットン」がニューファンドランド沖でU-234を捕らえ、潜水艦の乗員、便乗者の任務、貨物の内容が明らかになっていくと、それまで分からなかった日独の現状、兵器開発能力が明かとなり、それは戦後のアメリカにとって思わぬ利益をもたらすことになったのである。

 

1部:最後の航海の展開

1章 事の起こり:日独協定

 1940年9月、日独伊三国同盟が成立する。この同盟は、欧州、アジアにおける枢軸国の覇権を確立するために、政治、経済、軍事の各面で同盟国が協力することをうたっていた。さっそく日本はドイツに対し、大口径砲、レーダー、潜水艦、軍用機などのモデルを送って欲しいとの要請を出し、ヒトラーも日本の要望に応えるよう、軍に指令を出すが、日本に不信感を抱くドイツ軍は、表面上はヒトラーの命令に従いながらも、最新鋭の器機を日本に提供することに難色を示し、機密情報は漏らさぬように努めていた。しかし、アメリカが参戦し、ドイツの敗北が濃厚になってくると、ドイツ軍は兵器開発に関わる技術者や専門家がアメリカ側に捕らえられることを怖れ、これらの人材を同盟国である日本に送って、この難局を乗り切ろうと考えた。そして1944年、日独の技術交換協定が結ばれ、ドイツ空・海軍の専門家と、メッサーシュミット社のジェット機、ロケットエンジンおよびその開発・製造に関わった技術者が、ドイツ軍の潜水艦U-234に乗船し、日本に向かうことになった。

 元々、日独間の物資輸送はシベリア鉄道を経由して行われていたのだが、1941年にドイツがソ連に進軍したことで陸路は使えなくなり、空路もソ連領空を侵す怖れがあるので使えなくなった。海路に関しても、連合国による厳しい海上封鎖を敷かれており、独側の商船および艦船は多大な損失被っていた。結局、日独両軍に残された最後の手段はドイツ潜水艦Uボートによる輸送となったのだが、潜水艦は貨物の収納に適した造りにはなっていなかった。しかし、あらたに運搬用の潜水艦を造るわけにもいかず、機雷敷設用のXBUボートを改造し、流用されることになった。これらのUボートは、ビスケー湾から大西洋に出た後、アフリカの喜望峰を回って極東へ向かうという大迂回コースをたどらねばならず、無事に任務を果たすことのできた艦は実に少なかった。

 

2章 最後の潜水艦

 機雷敷設艇XBUボートの開発は20世紀初頭から始まった。第2次世界大戦勃発後、アメリカとの対立を避けたいヒトラーが魚雷攻撃を制限したため、海軍総司令官デーニッツ元帥は、代わりに機雷による通商破壊作戦を展開し、主にイギリスの商船に多大な損害を与えることに成功していた。XBUボートは、機雷格納スペースがあるため、大きさは最大級だったが、潜行スピードが遅く、攻撃・防衛機能は備わっていなかった。1938年に初のXBUボートがキールで造られ、その後、いくつかのXB型が造られたが、戦時下の物資不足の影響もあって、1942年に造られた8艇目のU-234がドイツ最後のXBUボートとなった。この最後のUボートの艦長に任命されたのは、34歳の海軍大尉ヨハン・ハインリッヒ・フェラーである。フェラーは海軍入隊後、1933年にドイツ通商破壊艦のエース「アトランティス」に乗務したが、アトランティスはイギリスの重巡洋艦「デヴォンシャー」の攻撃を受け、沈んでしまう。その際、Uボートに救助されたフェラーは、その後Uボートへの憧れを募らせていった。そして1944年3月、ようやくその願いがかなうことになったのである。通常、艦長を務める者は、過去に任務を共にした仲間をスタッフに引き入れるのだが、経験の浅いフェラーにはそのような仲間がおらず、乗組員の人選には苦労したようだ。結局、U-234の乗組員は、潜水艦勤務は初めてという新人と、ベテランの士官数名という組み合わせになった。

 U-234には日本に派遣される予定の人物が乗り込んでいた。そのメンバーは、在日ドイツ大使館付空軍武官に任命されたウルリッヒ・ケスラー大将、その部下エリック・メンゼル中尉、フリッツ・フォン・サンドラルト中佐、海軍のエンジニア、ゲハルド・ファールク少佐、同じく海軍の対空火器専門家のハインリッヒ・ヘレンドン中尉、海軍法務官カイ・ニーチュリング、海軍パイロット、リヒャルド・ブラ少佐、民間研究施設の電子工学博士ハインツ・シュリック、メッサーシュミット社の技術者アウグスト・ブリンジワルとフランツ・ルフ、そしてドイツに赴任中だった日本の海軍武官で、航空機分野の専門家、庄司元三中佐と、潜水艦設計の専門家、友永英夫中佐である。

 さらに、U-234には膨大な量の外交文書、私信、軍事物資、兵器およびその設計図が積み込まれていた。中でも注目すべきは、積荷目録に記載されていた560キログラムの酸化ウランであり、この物資の存在と行方をめぐっては、後に様々な説が出てくることになる。

 U-234は、訓練、故障、修理、整備を繰り返した後、当初の予定よりだいぶ遅れて、1945年4月15日にノルウェーのクリスチャンサンを夜の闇にまぎれて出航した。しかし、U-234の動向は連合国側に傍受されていたのである。出航から1カ月が経とうとしていた5月8日、大西洋のカナダ沖を航行中だったU-234の元に、ドイツが降伏し、日本はドイツとの関係を絶ったとの報が入り、フェラー艦長はU-234の行き先ついて大きなジレンマに陥ることになった。

 

3章 降伏にまつわる問題

 1945年5月10日、連合国側は航行中のすべてのUボートに対し、降伏命令を発した。U-234の乗員、便乗者にとって、ドイツの敗北はある程度予想していたことだった。問題は降伏先をどこにするである。U-234が航行していた位置は、英米両国の戦闘分担地域のちょうど境目にあたり、ドイツ人たちは「憎きイギリスに捕まるよりは、アメリカ側に降伏したほうがまし」との思いを抱いていた。しかし、U-234には日本人武官が乗っている。日本は未だアメリカと交戦中であり、ケスラー空軍大将は、友永と庄司の行く末を案じ、中立国のアルゼンチンに向かうことを主張したが、他の乗組員の同意を得ることができず、U-234はアメリカを目指すことになった。敵国への降伏を潔しとしない友永と庄司は、U-234を沈めてしまうことも考えたようだ。しかし、同室だったフォン・サンドラルトの説得に折れ、ドイツ人を道連れにすることは思いとどまった。そして、いざという時ために携帯していた睡眠薬を飲んで自決したのである。2人の亡骸は5月14日に海に葬られた。

 U-234の航行位置は、英米両国の大西洋艦隊に捕らえられていた。何としてもアメリカ側に降伏したいU-234は、カナダの追跡を免れるため、わざと航行位置を知らせた後で連絡を絶ち、全速力で大西洋を南進した。一方、アメリカ側の護衛駆逐艦「サットン」も、妨害電波を出してカナダのU-234追跡を阻み、5月14日の夜、ついにU-234を捕らえることに成功する。降伏に先立ち、フェラー艦長ら、U-234の乗組員、便乗者たちは、機密文書やマイクロフィルム、航海日誌などをできる限り海中に捨てた。翌日5月15日の午前11時、フェラー艦長がU-234をサットンに引渡し、U-234の世界大戦はようやく終結する。その後、U-234はアメリカの沿岸警備艇「アルゴ」に引き渡され、5月19日にいよいよポーツマス軍港に入港した。

 

4章 ポーツマス

 ドイツの降伏によってUボートが拿捕され始めた頃、アメリカ海軍はそれなりの情報公開が必要だと考え、マスコミに対していくつかの制限を設けながらも取材を許可する方針を打ち出していた。しかし、事前にU-234の乗員、便乗者、貨物の内容を察知していた海軍はU-234を特別な存在と判断し、その詳細を機密扱いにすることを決定した。ただ、情報をまったく提供しないわけにもいかないので、いくつかの情報と共に「ドイツ空軍の将校が3名乗船していた」との記者発表を行ったところ、「それはヒトラーではないか」との噂に火をつける結果になってしまった。取材を禁止したところでマスコミがおとなしく従うはずもなく、結局、この禁止措置はすぐに緩められることになった。5月19日、U-234の乗員、便乗者がポーツマスに到着すると、彼らを待っていたのは、まるで猛獣見物にでも来たかのような取材陣の好奇な目と、「アルゴ」の司令官ウィンスローが発した「私の船から降りろ!」という罵声と、拘留所での屈辱的な待遇だった。後にフェラー艦長は「アメリカに降伏する道を選んだ自分の判断を悔いた」と告白している。

 U-234の貨物には爆薬、兵器などの危険物が多数あり、その取り扱いに苦慮したアメリカ海軍は、かなりの抵抗を感じながらも、ドイツ人乗組員の協力をあおぐことにした。ドイツ兵の中で特に協力的だったのは、カール・プファーフ中尉である。彼は貨物リストに酸化ウランが載っていたことを明らかにした。、この事実に大きな関心を持ったアメリカ海軍は、疑わしいコンテナすべての放射線測定を試みたが、どのコンテナに酸化ウランが入っているのかは、結局分からなかった。プファーフ中尉は、U-234のシュノーケルの取り外し、および米潜水艦への取り付け作業においても協力を申し出、シュノーケルの構造を解説付きの図面にしてアメリカ側に提出した。U-234には、V1V2ミサイル、ME262ME162戦闘機、ミサイル用信管など、ドイツの最新鋭兵器のサンプルや部品、設計図が多数積まれており、アメリカ海・空軍の大きな関心の的となった。当時、日本軍の抵抗はまだ続いており、日本を降伏に追い込みたいアメリカにとって、日本軍がドイツからどのような兵器や技術を導入しようとしていたのかを知ることは、戦略上、重要な意味を持っていた。

 

第2部:新世界

5章 大将

 U-234の軍事的、外交的任務を率いていたのは空軍大将ウルリッヒ・ケスラーである。ケスラーは1894年に東プロイセンで生まれた。第1次世界大戦当時は海軍パイロットとして従軍し、ベルリン大学で政治と法学を学んだ後、軍事評論などを執筆するようになるが、1932年にはドイツ代表としてジュネーブ軍縮会議に出席。翌1933年はナチス空軍省司令部で中佐の地位を得る。一度はゲーリング空軍総司令官と意見が対立したものの、その後少将に任命され、ヨーロッパ各地の空軍部隊を指揮してきた。

 日本の戦闘能力の現状を知りたいアメリカ海軍諜報部は、ドイツが提供しようとした兵器に関し、ケスラーに数々の尋問を行った。とりわけアメリカは、B29の爆撃に対し、日本がどのような迎撃体勢を取るのか知りたかったのである。ケスラーによれば、ドイツは日本対し、V2ロケットミサイルや、ME163ターボジェット戦闘機の製造技術をすでに提供しているのだが、現時点での日本には、その技術を活用する力がなく、必要な精密器機も持ち合わせていないとのことだった。さらにケスラーは、日本がこれらの兵器を用いた戦略を展開する可能性は、まったくないとは言えないものの、おそらく将来的なことになるだろうとコメントし、この分析は、アメリカの対日本戦略に少なからぬヒントを与えることになった。

 ケスラーはナチスに嫌悪感を抱いており、直接的ではなかったものの、ヒトラー暗殺計画にも加担していた。その結果、ゲシュタポから目をつけられるようになり、身の危険を感じたケスラーは、ベルリンの日本大使館付海軍武官、小島秀雄少将や大島浩大使の元を訪れ、「自分を東京のドイツ大使館付武官に任命するよう、ゲーリングに働きかけてほしい」と頼み込んだのだった。ゲーリングは最初、日本人武官からの要請を聞き入れなかったが、これは自分と反りが合わないケスラーを遠ざける最後のチャンスだと思い直し、彼を在日ドイツ大使館付空軍武官に任命することにした。アメリカ海軍諜報部は、ケスラーのこのようないきさつを知り、彼に信頼を置くようになったのである。

 

6章 防空にまつわる問題

 連合軍の空襲に対するドイツと日本の反応はかなり違っていた。ドイツは空襲の可能性をある程度予想しており、実際の被害に大きなショックを受けながらも、「我が国は最新の防空兵器を有している。問題はその数が圧倒的に足りないことだ」と状況を冷静に分析していた。一方日本は、本土が攻撃を受けるなどとは夢にも思っていなかった。そして1945年3月、東京、名古屋、大阪、神戸がB29の焼夷弾攻撃で壊滅的な被害を受けて、日本はようやく自分たちの無防備さを思い知ったのである。大空襲後、日本は同盟国のドイツに対し、防空専門家の派遣を要請し、ドイツ空軍はエリック・メンゼル中尉とフリッツ・フォン・サンドラルト中佐を送ることにした。

 24歳の若き空軍中尉エリック・メンゼルは、通信およびレーダー分野の専門家だった。彼は軍人というよりは科学者であり、アメリカ軍の尋問に際しても「戦争は空しい。自分の知識はもっと良いことに使うべきだ」との感想を述べている。メンゼルに与えられた主な任務は、日本にレーダー・システムを導入し、実戦での活用法を専門技術者たちに教えることだった。また、メンゼルは、ヘンシェル社製の遠隔操作滑空爆弾HS293の使用説明書と設計図を所持しており、この爆弾の使用方法を伝えることも彼の任務だったようだ。

 対空戦略の専門家フリッツ・フォン・サンドラルト中佐は、対空火器による防衛システムを日本に導入することを任務としていた。当時、ドイツは火器管制装置、レーダー誘導型ロケットなどを開発しており、これらも日本に導入される予定だった。ただ、フォン・サンドラルトは、日本軍がそれを使いこなせるとは思っておらず、「空を征することが連合軍勝利のカギ。日本はドイツよりも手ひどい痛手を受けるだろう」と予測した。

 

7章 デーニツの海軍の任務

 大戦末期、ドイツ海軍の任務はUボートでの戦闘と沿岸警備に限られていた。海軍総司令官カール・デーニッツ元帥は、海軍兵士に大きな艦隊での実地訓練を積ませるべきだと考え、ゲハルド・ファールク少佐、ハインリッヒ・ヘレンドン中尉、リヒャルド・ブラ少佐、カイ・ニーチュリング法務官をU-234で日本に派遣することにした。

 ゲハルド・ファールク少佐は造船技術、特に溶接技術の専門家だった。日本語を流暢に話し、外交能力に長けていたことから、それまで外国使節団への対応や、各国の関係武官との調整役を一手に引き受けており、日本への派遣はファールクにぴったりの任務だったと言えよう。彼は、帝国海軍での研修の他に、Uボートの建造技術を日本に伝える任務も担っていた。

 リヒャルド・ブラ少佐は、フェラー艦長の「アトランティス」時代の仲間で、通商破壊艦のパイロットとして活躍したこともあった。ブラは、帝国海軍航空隊での研修を命ぜられており、帰国後はドイツ海軍に同様の部隊を創設することになっていた。日本での任期は2年から5年と言われており、この長い派遣機間がアメリカ海軍諜報部の関心を引いた。アメリカ側は、ドイツがこの間に日本の協力を得て秘密兵器を完成させようとしているのではないか、と考えたのである。ブラは「詳しいことは何も知らない」と証言していたが、拘留先の監房で、同僚のヘレンドン中尉に、海上用高射砲について話しているところを盗聴されている。

 カイ・ニーチュリング法務官は、日本に駐在するドイツ海軍兵の裁判権を確保するために派遣された。と同時に、彼にはゾルゲのスパイ組織の生き残りを探し出し、起訴する任務も課せられていた。アメリカ海軍諜報部の判断するところでは、チーチェリングは「100%ナチスの信奉者」だったのだが、大戦後のイデオロギー闘争を予想するなど、彼は世界状況を客観的に分析する目を持っていたのである。

 

8章 科学者たち

 19435月、連合国側の電子技術を目の当たりにした在ベルリン日本軍武官は、本国司令部に、日独技術者の交流と、情報交換の必要性を訴えた。その結果、メッサーシュミット社の2名の技術者に加え、赤外線レーダーの専門家、ハインツ・シュリック博士がU-234で日本に派遣されることになる。シュリックの任務は、日本に電子工学技術を伝えることだけではなく、日本の方向探査技術の習得、連合国側が日本向けに設置している高周波レーダーのモニター、無線ナビゲーション・ステーションの建設、遠隔操作爆弾の協同開発など多岐に渡っていたが、シュリック自身は、日本の科学技術はドイツよりもかなり遅れていると考えていた。だが、ドイツには技術はあったものの、それを大戦に活かすまでの時間的余裕がなかったのだ。シュリックは「ドイツの技術を導入した日本が赤外線近接信管などの装置を造る可能性はある」と、アメリカ側に警告した。アメリカ海軍諜報部は、これらの兵器に対抗するために、シュリックに協力を仰いだ。シュリックは1946年6月の本国送還が決まるまでアメリカ軍に協力した。そして、いったん帰国したものの、その後再びアメリカに渡り、海軍の研究施設や民間企業で研究・開発に従事した。

 

9章 メッサーシュミットから来た男たち

 1942年のミッドウェー海戦で大敗した日本軍は、軍用機開発に力を注ぐ必要性を痛感する。しかし、人材は他の軍需産業や戦場に取られてしまっており、日本はドイツに頼らざるを得なくなった。日本が目をつけたのは、メッサーシュミット社製の戦闘機であり、日本からの要請を受け、同社の建造技術者兼ゼネラル・マネージャ、アウグスト・ブリンジワルドと、フランツ・ルフがU-234で派遣されることになった。

 日本への派遣が決まる前から、アウグスト・ブリンジワルドは、日本に不信感を抱いていた。こちらが軍用機建造の指揮を取ろうとしているのに、日本は工場設備などの詳細をメッサーシュミット側に伝えようとしなかったのだ。ブリンジワルドはその時「日本の軍人は、民間の技術者を見下している」との印象を持った。そしてこの印象は、U-234内で友永、荘司両中佐に無視されたことで、ますます強まったのである。

 フランツ・ルフは、ジェット戦闘機ME262の建造に関わる工業機械の調達と製造監督の任務を担っていた。ルフの貨物には、膨大な量の設計図や工程表、塗装図のほかに、ME262一機分のパーツが含まれていた。

 ブリンジワルドとルフの証言によれば、メッサーシュミット社のV1ミサイルの設計図や関係書類がすでに日本の手に渡っているはずだった。ブリンジワルドとルフは、日本の戦闘機開発能力を推し量る上で、アメリカ軍にとって大いに役立つ存在だった。それゆえ、彼らの本国送還は1946年の夏までずれ込んだのである。いったん帰国したものの、ドイツの航空産業に見切りをつけた2人は、戦後再び渡米した。

 

結論

 1945年5月の降伏以来、U-234に対して様々な点検、調査、使用実験が行われ、翌年の春には600ページに及ぶ調査報告書が出来あがった。そして194711月、U-234は米国海軍の巡視艦「グリーンフィッシュ」の機雷発射実験のターゲットとなり、最後の航海に出るべく水中に沈んでいった。U-234は第2次世界大戦において、どんな役割を果たしたのだろうか?

 U-234の降伏は大戦の終結にそれほど大きな影響は及ぼさなかったかもしれない。しかし、これによって米国は、ドイツの兵器を取り入れようとしている日本の目論みを察知し、対策を取る必要性に気づくことができたのだ。降伏後、U-234の乗員であった技術者たちは、米国政府のために働くことになり、彼らがもたらした技術と情報のおかげで、米国は防衛、兵器開発において冷戦時代のリーダー的存在となっていった。核の時代を迎え、U-234の元乗員たちは、抑止能力を持つ兵器の開発に大きな役割を果たすことになったわけで、これこそがU-234の最大の貢献と言えるのだろう。

 

補遺:U-234の酸化ウラニウム

 1945年5月にU-234がポーツマスに入港し、総重量162トンの貨物が荷揚げされた。積荷目録には、各種兵器のサンプルや設計図のほかに、日本向けの貨物として560キログラムの酸化ウラニウムU235が記載されており、この酸化ウラニウムの存在と、その最終的な行き先をめぐって、これまで数々の議論がなされてきた。確かに、日本は1944年に同盟国であるドイツに対し、2回目の酸化ウラン出荷要請を出している。しかし、ポーツマスで荷揚げに立ち会った人々の証言は食い違っていた。また、このウランがオークリッジの原子力研究施設に運び込まれ、マンハッタン計画の原爆開発に利用されたとの噂がまことしやかにささやかれた。しかし、時間的に見て、5月に荷揚げされたウランが8月に投下される原爆の原料になったとは考えにくい。1945年7月、酸化ウラン疑惑に関心を持っていた政府の委託組織が「ブルックリンの倉庫に保管中であるU-234の貨物について、近々検討する」との発表をしており、酸化ウランの行方に関しては、今のところ、この発表が最も信頼できる。つまり、現時点ではブルックリンまでの足取りがつかめている、ということだ。

 そもそも、U-234が積んでいたものは本当に酸化ウランだったのだろうか? U-234に乗船した日本人将校が、貨物に「U235」と記しているのを見たとの証言は確かにあった。だが、これが核分裂性を有するアイソトープ「U235」を指しているのだとすれば、ドイツは560キログラムものアイソトープを分離できる原子炉を持っていたことになる。しかし大戦当時、(開発中だったことは事実だが)ドイツには稼動可能な原子炉は存在しなかったのだ。それに、日本人将校を目撃したという人物は、かなり離れた所からその模様を見ていたらしく、はたして文字をきちんと読み取れたのかどうか疑問である。

 U-234の酸化ウランについては、今後も議論が続けられていくことだろう。

 

8 感想・評価

 歴史的事実を扱った著作の場合、様々なエピソードを時系列で並べていくことが多いが、著者スカリアは、全体的な流れを前半で紹介し、後半ではU-234の主な乗員、便乗者にスポットを当て、彼らのバックグラウンドやU-234に乗船するまでの経緯、それぞれの任務を明らかにすることで、U-234の歴史的意味を探り出そうとしている。前半と後半で重なる話題もかなりあり、そのような箇所ではやや冗長に感じられるものの、人物検証に重点が置かれているため、読者は「ナチスドイツの将校」の一般的イメージから離れて、各個人を見ることができ、彼らも戦争に翻弄された人間の一人だったのだと実感するであろう。

 著者は、膨大な公文書や関連記事、インタビューなどから客観的事実のみを取り出そうとしている。U-234にまつわる核疑惑についても、既存の説や証言の矛盾点を指摘し、安直に結論を出すことを避けており、この姿勢には好感が持てる。人物描写においても、この客観性は貫かれているものの、各人のキャラクターが浮き彫りになる発言や言動を書き添えることを忘れていない。ただ欲を言えば、U-234艦内の乗員、便乗者どうしの人間関係がもう少し詳しく描かれていても良かったような気がする。本書の目的はU-234の任務を明らかにすることであるから、そこまでやる必要はないのかもしれないが、歴史小説的要素を期待して本書を手にした読者には、そのへんのところが多少物足りなく感じられるかもしれない。また、日本の読者であれば、U-234内で自決した2名の日本人将校や、U-234の派遣に関わった日本側の在独武官について詳細を知りたいところである(このあたりの話は、吉村昭が『深海の使者』<文春文庫>の中で取り上げている)。しかしながら、本書の前書きにもあるように、数々のUボート関連書籍が出ている中、U-234一艇に的を絞った作品は非常に珍しく、第2次世界大戦末期の日独関係、両国の軍事力の実態、アメリカの対応と冷戦時代への影響を知るうえで、本書は貴重な資料となり得るし、現代史の研究に携わる人のみならず、歴史小説ファン・Uボートファン・(いわゆる)軍事マニアと言われる読者層にも受け入れられるだろう。

 原文の描写は簡潔で分かりやすく、全体的にすっきりとした文体である。